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社会を良くしたい、女性の声を届けたい、理不尽を変えたい——
かつてそう願い、行動してきた女性ほど、ある日ふと「もう、変えたいと思えない」と感じる瞬間があります。
それは無関心でも敗北でもありません。
このコラムでは、その感情が生まれる理由と、そこに潜む“健全さ”について、仁蓉まよとして丁寧に言語化します。
「変えたい」という意志が枯れるとき
社会課題に向き合い続けた女性ほど、変化の遅さや反発、期待の重さを一身に受けてきました。
「正しいこと」を言い続ける役割を担わされ、休む余地を失った結果、意志そのものが摩耗していく。
変えたいと思えなくなったのは、意志が弱いからではなく、意志を使いすぎたからなのです。
希望を語れなくなった自分を責めない
社会を変える言葉は、常に前向きであることを求められます。
しかし、希望を語れない時期は誰にでも訪れる。
その沈黙は、怠慢ではなく回復の前兆であることが多いのです。
語れない自分を責める必要はありません。
共感を差し出し続けた代償
女性はしばしば「共感する側」「支える側」に立たされます。
けれど、共感は無限資源ではありません。
共感を使い果たした状態で、さらに社会変革を求められれば、心が離れるのは自然な反応です。
これは逃避ではなく、境界線を取り戻す行為です。
社会を変えない選択も、意思決定である
「変えない」という選択は、無力さの証明ではありません。
それは、自分の人生を守るための高度な意思決定です。
すべての人が社会を変える役割を担う必要はない。
変えない自由も、尊重されるべきです。
怒りが消えたあとに残るもの
怒りは行動の燃料になります。
しかし、その燃料が尽きたあと、虚無や静けさが訪れることがあります。
その状態を「冷めた」と切り捨てるのではなく、次の人生段階への移行期として捉えてほしいのです。
社会より先に、自分を回復させる
社会を変える前に、自分の身体と心が安全であること。
それは利己的ではなく、持続可能性の条件です。
回復を優先する女性が増えること自体が、実は社会構造への静かな抵抗でもあります。
何者にもならなくていい時間
影響力、発信力、役割——
それらを一度すべて手放しても、人生は終わりません。
「何者でもない時間」は、再設計のための余白です。
社会的価値から離れた場所でしか、回復できない人もいるのです。
それでも、生きていていい
社会を変えたいと思えなくなったとしても、
声を上げられなくなったとしても、
それでも生きていていい。
変えない女性、語らない女性、休む女性もまた、
この社会を構成する大切な一部なのです。
