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女性支援、キャリア支援、ケア、共感、エンパワメント。
私は長く、そのど真ん中で言葉を紡いできました。
助産師として、社会起業家として、支援する側として。
けれど今、はっきりと感じていることがあります。
「もう支援の言葉を信じられない女性たち」が、確実に増えているという現実です。
それは怠惰でも、甘えでも、否定でもありません。
むしろ、真面目に生きてきた証拠なのです。
本稿では、「希望」が機能しなくなったあと、私たちはどう社会と向き合えるのかを考えます。
希望は、ある日突然“重荷”になる
支援の現場では、希望は正義です。
「大丈夫」「変われる」「あなたならできる」
これらは、多くの女性を救ってきました。
しかし同時に、
回復できなかった人
立ち上がれなかった人
変われなかった人
にとって、希望は自分を責める装置にもなります。
希望があるからこそ、「できない私は間違っている」と思ってしまうのです。
「支援され続けること」自体が負担になる瞬間
支援は本来、助ける行為です。
けれど、長期化すると関係性が固定されます。
期待され続ける
回復を求められ続ける
成果を暗黙に要求される
ここで起きるのは、支援される側の沈黙です。
「もうしんどい」と言えなくなる。
なぜなら、その言葉自体が“裏切り”のように感じてしまうから。
支援の場で起きる、静かな排除
表向きは誰も傷つけていない。
制度もある、言葉も優しい。
それでも、
うまく語れない人
成果を出せない人
物語に乗れない人
は、少しずつ周縁に追いやられていきます。
これは悪意のない排除です。
だからこそ、誰も責任を取らない。
「正しさ」が多い社会ほど、逃げ場は少ない
女性支援の世界は、とても正しい。
ジェンダー平等、自己決定、エンパワメント。
けれど正しさが積み重なるほど、
そこから降りる自由は失われていきます。
「もう信じられない」
「もう頑張れない」
その言葉を言った瞬間、
“意識が低い人”“分かっていない人”にされてしまう怖さがあるのです。
回復できなかった女性は、どこへ行くのか
成功事例は語られます。
回復ストーリーも、再起の物語も。
では、
回復できなかった人は?
途中で降りた人は?
支援から距離を取った人は?
多くの場合、語られません。
語られないということは、存在しないことにされるということです。
「支援をやめる自由」は、なぜ認められないのか
私は今、強く思います。
本当に必要なのは、
支援を受けない自由
支援を信じない自由
一度、全部から降りる自由
ではないかと。
支援は選択肢であって、義務ではない。
その当たり前が、実は最も守られていません。
それでも生きていくための、静かな再設計
希望を持てなくなったとき、
私たちにできるのは「無理に前を向くこと」ではありません。
小さく生きる
語らない時間を持つ
役割から一度降りる
評価されない場所に身を置く
これは後退ではなく、再設計です。
人生を壊さないための、戦略的な撤退なのです。
支援の先にあるのは、「生き延びる権利」
支援の目的は、成功させることではありません。
自立させることでも、変化させることでもない。
生き延びることを許すこと。
希望を語れなくなった女性たちが、
それでも静かに生き続けられる社会。
私はこれから、
「支援を信じられなくなった人のための言葉」
を、引き続き書いていこうと思っています。
それは、支援を否定するためではありません。
支援が壊さない社会をつくるために。
