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女性支援の現場では、成功事例が語られることは多くても、「失敗」が正面から扱われることはほとんどありません。
私は助産師として医療現場に立ち、福祉事業や女性支援、起業支援にも関わってきました。そのなかで強く感じてきたのは、女性支援における失敗は、個人の責任として処理されやすく、構造として評価されないという現実です。
本稿では、なぜ女性支援の失敗は可視化されず、学習資源にならないのか。その背景にある社会構造を整理し、支援を「続けられるもの」に変える視点を提示します。
女性支援は「成功」しか許されない
女性支援の現場では、「救われた」「変われた」「自立できた」という成功物語が求められます。
一方で、途中で離脱した人、制度につながらなかった人、かえって傷ついた人の存在は、語られにくい。
これは支援者が無能だからではありません。社会全体が、女性支援を“希望の物語”として消費し、失敗を許容する設計になっていないのです。
失敗が「誰の責任か」に回収されてしまう構造
支援がうまくいかなかったとき、問いはすぐに個人へ向かいます。
「本人の努力不足」「選択の問題」「タイミングが悪かった」。
しかし実際には、制度の条件、情報格差、支援の導線、支援者側のリソース不足など、複合的な要因が絡んでいます。
それでも失敗が構造として検証されないため、同じことが繰り返されるのです。
評価制度が「成功例」しか拾わない
行政も企業も、成果を数値で示すことを求められます。
その結果、「何人が就職したか」「どれだけ自立したか」という指標だけが評価対象になります。
途中で離れた人、制度に適合しなかった人は、最初からカウントされない。
評価されない失敗は、存在しなかったことにされてしまうのです。
支援者ほど失敗を語れない理由
女性支援に携わる人ほど、倫理観が強く、責任感が重い。
だからこそ、「救えなかった事例」を語ることに強い罪悪感を抱きます。
失敗を共有することが、当事者を再び傷つけるのではないか、支援の信頼を損なうのではないかと恐れてしまう。
その沈黙が、結果的に構造の改善を妨げています。
「合わなかった人」は切り捨てられているわけではない
支援に合わなかった人は、「失敗例」ではありません。
その支援の設計が、どの層に最適化され、どの層を取りこぼしているのかを示す重要なデータです。
本来なら、そこから制度や支援の多様化が生まれるはずなのです。
しかし現実には、「合わなかった」という事実自体が語られません。
医療と福祉では「失敗」の扱いが違う
医療の世界では、インシデントやヒヤリ・ハットが共有され、再発防止に活かされます。
個人を責めるのではなく、仕組みを見直すためです。
女性支援や福祉にも、本来は同じ視点が必要です。
ところが現場では、感情と善意に依存するあまり、構造的な検証が後回しになっているのです。
失敗が共有されないと、支援者が壊れていく
評価されない失敗は、支援者の内部に蓄積されます。
「もっとできたはず」「私の力不足だ」という自責として。
これはバーンアウトを加速させ、結果的に支援の担い手を減らしてしまいます。
失敗を構造として扱わない社会は、支援者を静かに消耗させているのです。
失敗を“学習資産”に変える社会へ
女性支援を持続可能にするために必要なのは、完璧な成功ではありません。
うまくいかなかった事例を、匿名性と尊厳を守ったうえで共有し、制度や支援設計に反映する仕組みです。
失敗を責任追及ではなく、改善の材料として扱える社会。
それは、支援される側だけでなく、支援する側も守る社会でもあります。
女性支援の質は、「どれだけ成功を語れるか」ではなく、
**「失敗から、どれだけ学べるか」**で決まるのです。
