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女性支援という言葉は、ここ数年で社会に広く浸透しました。
経済的自立、キャリア形成、ケアの再評価、ジェンダー平等。
どれも正しく、必要で、私自身も長く関わってきたテーマです。
一方で、現場に立ち続ける中で、私・仁蓉まよはある問いを強く持つようになりました。
それは、「支援は、いつまで“守る”もので、どこから“引き受ける”ものになるのか」という問いです。
本稿では、女性支援を否定するためではなく、
支援が成熟するために必要な“責任”という視点について整理します。
支援は「善意」から始まるが、永続しない
女性支援の多くは、善意と問題意識から始まります。
医療者、行政、企業、支援者。
「困っている人がいる」「この構造はおかしい」という感情は、社会を動かす大きな力です。
しかし、善意だけで成り立つ支援は、必ずどこかで歪みが生じます。
疲弊、燃え尽き、依存、対立。
これは支援する側・される側、どちらかが悪いのではありません。
善意は設計されなければ、持続可能にならない。
これは現場で何度も見てきた現実です。
「守られる側」に置き続けることの危うさ
支援という言葉は、無意識のうちに
「守る人」と「守られる人」を固定化します。
もちろん、暴力や貧困、差別の中にいる人には保護が必要です。
ただし、すべての女性を常に「弱者」として扱い続けることは、
結果的に意思決定の主体性を奪うことにもつながります。
本来、支援とは
「選べる状態を取り戻すための一時的な補助」であるはずです。
責任とは、自己責任論のことではない
ここで誤解してほしくないのは、
私が言う「責任」とは、自己責任論ではありません。
努力が足りない、頑張れないのが悪い、という話ではないのです。
私が言う責任とは、
**「選択の主体として席に座ること」**です。
選ばされるのではなく、
選んだ結果を引き受ける覚悟を持つこと。
それが支援の次のフェーズです。
支援がうまくいかないとき、何が起きているのか
支援が停滞するとき、現場ではよく次の構図が生まれます。
・支援する側は「これだけやっているのに」と感じる
・支援される側は「まだ足りない」と感じる
ここに生まれるのは、怒りでも甘えでもなく、
設計されていない関係性です。
役割、期限、ゴール、責任範囲。
これらが曖昧なままでは、善意は必ず摩耗します。
「支援される私」から降りる瞬間
女性が一段階成長する瞬間は、
「もう支援はいらない」と言えるときではありません。
「この選択の結果は、私が引き受ける」と言えるときです。
それは結婚でも、仕事でも、起業でも、非婚でも同じです。
誰かに背中を押してもらっても、
最後に決めたのは自分だと言える状態。
ここに立てたとき、人は本当の意味で自由になります。
支援者側にも必要な「境界線」
支援の成熟には、支援される側だけでなく、
支援する側の責任も問われます。
共感しすぎないこと。
抱え込みすぎないこと。
「できない」と言う勇気を持つこと。
これは冷たさではなく、
関係性を壊さないための倫理です。
境界線のない支援は、必ず誰かを傷つけます。
女性支援は「育成フェーズ」に入っている
これまでの女性支援は、「救済」と「是正」が中心でした。
これから必要なのは、「育成」と「共創」です。
支援される女性を、
・意思決定できる人
・社会を設計する側
・次の担い手
として扱うこと。
これは支援の縮小ではなく、進化です。
支援のゴールは「支援がいらなくなる社会」
最終的に目指すべきは、
支援が不要になることではなく、
誰もが一時的に支援を受け、やがて責任を持って次に渡せる社会です。
女性支援は、守ることから始まり、
選ぶ力を育て、
引き受ける覚悟へとつながっていく。
読者であるあなたも、
すでに「考える側」「設計する側」の席にいます。
支援は、そこから本当の意味を持ち始めるのです。
