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依存症や嗜癖という言葉は、いまだに「意志が弱い人の問題」「自制できない人」というイメージで語られがちです。
しかし、医療・福祉・女性支援の現場を見てきた私にとって、女性の依存は決して個人の資質の問題ではありません。それは、過剰な役割期待、我慢を美徳とする文化、選択肢の少なさが重なった結果として現れる、極めて社会的な現象です。
本稿では、女性と依存症・嗜癖の関係を、感情論や道徳論から切り離し、「構造」と「回復の設計」という視点で整理します。
女性の依存は「問題行動」として可視化されにくい
女性の依存症は、男性に比べて非常に見えにくい形で進行します。
アルコール依存であっても「家で一人で飲む」、買い物依存であっても「ストレス発散」、恋愛依存であっても「尽くす性格」と解釈されやすい。仕事依存やSNS依存も、「意識が高い」「頑張っている」と評価されることすらあります。
つまり女性の嗜癖は、「社会が許容・称賛してきた行動と重なりやすい」のです。
その結果、本人も周囲も「問題だ」と気づいたときには、心身・人間関係・経済の複数領域が同時に傷ついているケースが少なくありません。
「ケアする役割」に固定されると、依存は起こりやすくなる
多くの女性は、幼少期から「空気を読む」「感情を抑える」「周囲を優先する」ことを求められて育ちます。
家庭では調整役、職場では潤滑油、パートナーシップでは理解者。この「ケアする側」に偏った人生では、自分の限界や欲求を言語化する機会が極端に少なくなります。
誰にも甘えられず、弱音を吐けず、助けを求める練習もできない。
その状態が続いた先で、人は「一時的に楽になれる行動」に救いを求めます。
依存とは、怠惰の結果ではなく、「支えられなかった歴史の延長線上」にあるのです。
依存症が求めているのは「快楽」ではなく「感情の停止」
依存症というと、「気持ちいいからやめられない」と誤解されがちです。しかし実際には、多くの当事者が求めているのは快楽ではありません。
不安、孤独、怒り、虚しさ、自己否定といった感情を、「一時的に感じなくなる」状態です。
アルコール、過食、SNS、買い物、恋愛。
それらは心を満たすためではなく、「心を感じないため」に使われている。
この点を理解しない限り、依存症支援は「我慢しなさい」「やめなさい」という表層的な対応に終始してしまいます。
女性の嗜癖は「関係性」に絡みついて現れやすい
女性の依存には、対人関係が深く関与するケースが非常に多い。
恋愛依存、共依存、モラハラ関係から離れられない状態。
これらは愛情の問題ではなく、自己決定権が侵食された状態です。
「必要とされていないと不安」「見捨てられたら生きていけない」
そう感じさせる関係性の中で、人は自分の感覚を信じられなくなります。
依存とは、その人の弱さではなく、不健全な関係が長期間続いた結果として理解する必要があります。
嗜癖はキャリアと経済を静かに崩していく
依存や嗜癖は、仕事やお金の選択にも確実に影響します。
判断が短期化し、「今つらくないこと」が最優先になる。
本来なら断れる条件の仕事を引き受けたり、不利な契約を飲み込んだり、衝動的な支出を重ねてしまう。
結果として、転職を繰り返す、貯蓄ができない、人間関係が壊れる。
これは能力の問題ではありません。
「回復を前提とした支援や制度が存在しない社会構造」の問題なのです。
回復とは「やめる」ことではなく「選び直せる力を取り戻すこと」
依存症の回復は、「行動をやめられたかどうか」だけで測れるものではありません。本質は、選択肢を持ち直せるかどうかです。
・断っても関係が壊れない
・休んでも価値が下がらない
・助けを求めても責められない
こうした環境が整って初めて、人は依存に頼らなくても生きられるようになります。
回復とは個人の根性論ではなく、「環境と関係性の再設計」なのです。
女性の依存支援は「個人の恥」ではなく「社会の責任」
日本では、依存症はいまだに「家族内で何とかするもの」「表に出してはいけないもの」とされがちです。
しかし、依存症は医療・福祉・労働・住宅・教育が複雑に絡む社会課題です。特に女性の場合、相談先が限られ、経済的に自立していないと関係を断ち切れない現実があります。
依存支援を「本人の反省」に任せるのではなく、「制度として支える視点」が不可欠です。
依存を生まない社会とは「女性が選べる社会」である
依存症を減らす最も有効な方法は、個人を強くすることではありません。
選べること、断れること、助けを求められること。これらが当たり前に保障された社会では、人は嗜癖に逃げ込む必要がなくなります。
女性の依存症・嗜癖の問題は、
「私たちは本当に、女性に選択権を与えてきたのか」
という社会全体への問いなのです。
