目次
社会には常に「正しい声」「共感されやすい声」があります。一方で、確かに存在しているのに、聞かれず、扱われず、時には排除されてきた声もあります。
私は助産師として、また女性支援や社会事業に関わる中で、「共感されない」という理由だけで切り捨てられてきた声を数多く見てきました。
本稿では、共感されない声を社会がどのように扱ってきたのか、その構造を整理しながら、私たちが向き合うべき次の段階について考えていきます。
社会は「理解できる声」だけを拾ってきた
社会制度や支援の多くは、「説明しやすい困難」「理解可能な苦しさ」を前提に設計されています。
年齢、属性、背景がわかりやすく、ストーリーとして整っている声ほど拾われやすい。
逆に、矛盾を含み、感情が荒れ、整理されていない声は「扱いにくいもの」として脇に置かれてきました。
これは冷酷さではなく、制度が“処理可能な情報”を求めてきた結果なのです。
「共感されない」は、正しくないという意味ではない
共感されない声は、しばしば「間違っている」「わがまま」「理解不足」とラベリングされます。
しかし、共感されない理由の多くは、声の内容ではなく、それが既存の価値観や秩序を揺るがすからです。
結婚しない、子どもを持たない、頑張らない、成長しない。
これらは社会にとって不都合であり、だからこそ共感の外側に追いやられてきました。
女性の声は「感情管理」まで求められてきた
特に女性の声には、「冷静であること」「配慮があること」「感謝を伴うこと」が暗黙に要求されてきました。
同じ主張でも、言い方が強い、怒っている、疲れているというだけで、その声は価値を失ったものとして扱われます。
これは内容ではなく、“態度”によって正当性が判断されてきたということです。
感情を持つこと自体が、社会参加の足かせになってきた構造は、今も根深く残っています。
支援の現場で切り落とされる声の特徴
支援の現場では、「支援しやすい人」が優先されがちです。
期限を守る、説明を理解する、前向きである、変わろうとする。
その条件から外れた瞬間、支援は難航し、やがて「対象外」とされることもあります。
しかし、最も声が荒れ、矛盾を抱え、拒否的になる人ほど、実は支援が必要な状態にある。
ここに、制度と現実の大きなズレがあります。
共感は“道徳”ではなく“社会技術”である
共感は美徳のように語られますが、実際には高度な社会技術です。
どの声に共感を向け、どの声を切り捨てるか。
そこには、資源配分、政治判断、組織防衛といった現実的な力学が働いています。
共感されない声は、道徳的に劣っているのではなく、「社会がまだ扱う技術を持っていない声」なのです。
共感されない声は、社会の未成熟を映す鏡
共感できないという反応は、個人の冷たさではありません。
その声を受け止める枠組み、言語、制度が未成熟であるというサインです。
過去には、DV被害、産後うつ、ハラスメントも「理解不能な声」とされてきました。
共感されなかった声は、後に社会を前進させる起点になってきたのです。
「聞かれない声」を持つ人に起きていること
共感されない経験が積み重なると、人は声を上げなくなります。
怒りは諦めに変わり、やがて無関心を装うようになる。
これは個人の問題ではなく、社会的な沈黙の生成プロセスです。
声を上げない人が増えるほど、社会は「問題がないように見える」状態に近づいていきます。
共感の先に必要なのは「扱える社会」
これから必要なのは、すべてに共感する社会ではありません。
理解できなくても、好ましくなくても、「存在として扱う」社会です。
共感は入口にすぎず、ゴールではない。
共感されない声を排除せず、摩擦を前提に置いた制度や対話を設計できるかどうか。
そこに、成熟した社会の分かれ道があります。
共感されない声は、社会にとって不都合なノイズではありません。
それは、次に変わるべき場所を指し示す、最も正直なサインなのです。
