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女性が社会に関わるとき、「寄付」「投資」「支援」「失敗」は、まったく別物として語られがちです。
しかし私は、助産師として、社会起業家として、そして複数の事業と現場を経験する中で、これらは一本の連続した線の上にある行為だと感じています。
本稿では、女性が社会にお金・時間・信頼を差し出すときに、なぜ「失敗」だけが過剰に罰せられるのか、その構造を言語化していきます。
女性の寄付は「感情」で片付けられやすい
女性による寄付や支援は、「優しさ」「思いやり」「母性」といった言葉で語られがちです。
その結果、意思や戦略としての評価がなされにくい。
本来、寄付とは社会のどこに資源を流すかという高度な意思決定です。
投資になると、女性は突然“慎重すぎる存在”になる
一方で「投資」と名がつくと、今度は女性は「リスクが取れない存在」と見なされます。
失敗したときに叩かれる前提があるからです。
男性の投資失敗は「経験」になりやすいのに、女性の失敗は「資質」の問題にされる。
この非対称性が、女性を投資の場から遠ざけてきました。
支援は「正しさ」を求められすぎる
女性が支援する側に立つと、常に“正解”が求められます。
誰を支援するのか、どこまで関わるのか、線を引くことすら批判の対象になる。
結果として、支援は善意の活動ではなく、リスクの高い行為へと変質していきます。
失敗した瞬間、語る資格を奪われる構造
最も深刻なのは、失敗した女性が「もう語ってはいけない人」になることです。
事業の失敗、投資の失敗、支援がうまくいかなかった経験。
それらは本来、社会にとって極めて貴重な知見であるはずなのに、
女性の場合、「だからダメだった」「向いていなかった」という結論に回収されてしまう。
女性は“失敗のコスト”を一人で払わされる
男性が失敗するとき、周囲には「次がある」「再挑戦」という言葉が用意されています。
一方、女性は失敗と同時に、信頼・居場所・発言権まで失うケースが少なくありません。
この構造が、女性の挑戦を静かに抑制しています。
それでも女性は、社会に資源を流し続けている
それでも多くの女性は、寄付し、投資し、支援し続けています。
なぜなら、社会の歪みや痛みを「自分ごと」として感じ取る感受性を持っているからです。
これは弱さではなく、高度な社会認知能力です。
失敗を含めて「投資」と呼べる社会へ
失敗しない投資など存在しません。
失敗を語れない社会では、成功も再現されない。
女性の失敗を「学習資産」として共有できる社会こそが、持続可能な社会です。
寄付・投資・支援・失敗を引き受ける覚悟
女性が社会に関わるとは、
お金だけでなく、時間、感情、信頼、そして失敗のリスクを引き受けることです。
だからこそ問われるのは、
その覚悟を、社会はきちんと受け止めているのかということ。
女性の挑戦を称賛するなら、
失敗したときにも、語る場所と尊厳を残す必要があります。
それができない社会は、未来への投資を自ら手放しているのです。
